「チ。ー地球の運動についてー」に思う。

ネットフリックスのおすすめで、
表題にアニメを見始めたら面白い。
大関先生@東北大学や、
野村先生@UCバークレーのおかげで
(いや、こっちはリハっくさんのおかげ
 なのだけれども。直接お話ししたこともないし)
理科、特に数学とか物理に心理的抵抗感が
なくなってきたこのタイミングでこのアニメ
と出会うのはベストタイミング!でした。

架空のお話ではあるのですが、当時の社会情勢を
考えれば「遠からずそういうことはあったのだろう」
というストーリーをうまく紡いでます。また、
特定の主人公がいるというよりも一つの主題を
多くの人間が引き継いで真理に辿り着くまでの
お話、と今のところは解釈しています。

冒頭お話した野村先生のニュートン力学から
マルチバースまでの解説動画

をみて、やはり何か真理を発見する人たちには
「その動機がある」ということを痛感します。
それまでの科学や真理探究の道筋があり、それに
対して「疑念」を抱く。疑念ではなく、ただの
「興味」かもしれない。そこはケースバイケース
だと思うけれども、そこに向かって実験計画をたて、
実証、考察、修正、といった膨大な作業の向こう側に
真理があれば幸福ですが、「そこまで人生甘くない」
シーンが先週見たシーンでした。

天動説を信じて人生をかけて研究してきた学者が
人生を全うしようとする直前で地動説に心が揺らぎ
自分の人生が無駄だったのではないか、と疑い、
恐れるシーンがありました。ただ、この学者の
最後のシーンはさまざまに解釈でき、
もしかすると・・・

それはそれとして、今の学校教育、特に教科教育では
「何ができるようになるべきなのか」
が先に来ます。確かに、基礎基本がないと何もできない
というのはよくわかります。でも、逆に「基礎基本があれ
ば学べるようになるのか」というと、最近、それは
違う気がしてます。(義務教育の先生方はそのことが
よくわかってるんだなぁ、ということを昨日の娘の
授業参観を見て気づいて、この回を書いてます。)

じゃ、何なのか?というと
「知りたい」と思う気持ちや
「それって本当なの?」と疑う気持ち、
「本当はこうなんじゃないの?」という直感や
「こんなのおかしい!」という憤りだったり。

そういう「想い」が抜けているんじゃないか、
という思いがしてます。でも、それは一律に教える
ことは難しい、また大学進学を主眼におく高校では
「1点でも点を取らせること」が至上命題に
なってしまう。「何を知っているか」「何ができるか」
ばかりに目が行きがちです。

最近、教育評論家の後藤健夫先生はfbのポストで
探究学習について、連投されています。
本校の探究の基礎を築かれた浦崎太郎先生が
お亡くなりになられたからかもしれません。
(改めて、感謝申し上げるとともに、
 ご冥福お祈りします。)

この「ポスト演習問題至上主義」が本当はポストなのか、原点回帰なのか。
自分は後者だと思ってます。


半年前にこんな記事を書きましたが、

統計的に考えて、大学受験は一部の大学を除いて
選抜機能が著しく低下するので「いいか、ここが
テストで出るぞ!」は使えなくなる世界線を
見つめているかどうか、だと思うんですよ。
普通公立小中学校とか大学入試を主眼に置かない
実業高校・そのほかの高校では割と「当たり前」の
目線だと思いますが、果てして大学進学型普通科で
その風景を想像できる人がどれだけいるのだろう。
その想いはこの発言とも重なりました。

教員の多くは、行動成長期以降の教育システムの中での「成功者」。次の社会での生き方を教えられるのかが、試されてる気がします。

実際、自分は英語科ですが、実業高校と
夜間定時制で教える経験をしてから進学校にきたので
色々感じることがあります。それはまたどこかで、と
思いますが、やはり大学受験で「点を取るためのスキル」と
英語ができるようになるスキルは「被るところと、被らない
ところがある」と考えています。ただ新課程の英語教育は
大学受験に必要なスキルだけでは点にならない共通テスト
というものがあるのでその辺りの是正がかかり始めてる
のも実感します。ただ、個別の大学が行う入試については
その大学のさまざまな事情があるので、
すぐ新課程の目的に合致した入試内容の問題を
作成できない事情があるんだろうと推察します。

ただこの「ねじれ」があることで受験生は両面張りする
必要性が出てきており、これがかなり高校生を苦しめてる
気がします。そういう意味で民間検定試験に一本化、なんて
話もかつてはありましたが、頓挫。

ただ、英語というものは僕が大学受験に向かって学習してた
頃は「テクニック(いわゆる文法・語法)」と「単語」さえ
知っていれば、なんとなく点をゲット、できた気がします。
ですが、リスニング問題が導入され「英語ができないと
点にならない」ようになってきています。これまでは知識で
なんとかなったのですがそれが「運用できるレベル」を求め
られるようになったのでこれまで知識を詰め込む教科だった
ところにスキルトレーニングをする時間的余裕がないのが
現状です。高校に上がってくるまでに、中3程度の英語が
4技能5領域それなりにできるレベルで上がってくるのなら
その上に上積みを・・となりますが、いやいや、と。

模擬試験も基本的には「どの学力層にとってもやりがいと
成果・判定できるように」と、和訳が入ったり、文法問題
入ってます。
ただ、正直、大学入試で問う力がもう少し統一されたら
別に英語力を測るテストでいい→CEFR準拠の民間検定
試験統一でいいじゃん」って話になるかもしれません。
「大学行くのに英検に金出すんかー」って批判もかつても
ありましたが、トータルコストで見れば、
さんざん模擬試験にお金を使い、
副教材にお金を使い、、ってやってきた高校側も、
そういった環境の成果で育ってきた学生を受け入れる
ことで利益を享受してきた大学側も正直「お金のことは
どっちも言えないんじゃないの?」って思います。

それよりは学習者が早く「何を目標に日々の活動に
取り組めばいいのか」目先を明るくしてあげることの
方が重要な気がします。社会に出て行ってから不安がない
英語力なんて高校教育だけで身につけられるかは
「可能性は0ではない」ぐらいに思っていただいて
学び続ける基礎ぐらいは身につけて欲しい。
そういう意味での「英語が使えるための基礎」であって
大学受験で点を取るための基礎基本とは僕はちょっと
一線を画してますが、なんとなく教科のレベルで言うと
そんなことを考えてます。

探究サイクルをどんだけブン回せるか?

そう言う目線で考えると、本当は総合的な探究の時間
は「教科の見方考え方」つまりその教科を学んで、
実社会をどんな切り口で見るのか、捉えるのかの基礎を
掴んだ上で、実際の問題課題解決にちょっと具体的に
切り込んでみる、のが「総合的な探究の時間」のあり方
だと思うし、教科担当者は「社会を自分の教科を通して
みるプロフェッショナル」でないといけないと思う。
そうなれば「総合的な探究の時間」と「教科における
探究的な学び方」も整合性が取れてくるんではないか、
と思うんですが模試対策、大学受験対策ばかりになると
そこってうまくいかないと思うんですけどね。

そう言う意味で

実施から数年間は教科教育担当者にとっても
生徒の探究に寄り添いながらその足場を確認できる
「モラトリアム」とも考えてます。

その先は大学受験指導が教員の「権威の源」
として役に立たない普通科教育の中での教科指導の
あり方を模索する、そのための数年だと思っています。

まあ、目の前の生徒の課題に「うーん、なんやろなー」
と一緒に悩んだり楽しんだりすればいいんだと思うんです。
肩に力を入れずに。

教員側もちょっとリセットが必要だと思います。
大学受験が関係ない環境で教えるのも、これまで以上に
普通科教員には「意味があるもの」になるでしょう。

具体と抽象の往還。これを意識できるか。

大学では抽象的な思考を求められることから、
どうしても高校では「抽象的な概念」を教える
ことに専念してる感じがありますが、
抽象的な思考ばかりに触れて抽象思考が身に付く
と言うわけでもないんですよね。

冒頭の「チ。」みたいな科学の歴史にしても
その時代の空気があって、人々の苦悩や思いがあり。

大関先生の物理の授業だって「傾きを求めよ!」って
いきなり命令すんな!ってのもわかるんですよ。
それはどう言う状況で何に使えるんですか?って
当然学習者が抱える疑問に普段から答えてるかどうか。

抽象性を求めすぎて、「無駄だと思って削ぎ落とした」
情報が本当は学習者の動機につながる、そんな側面
もあると思うんですよ。

そこの復権が総合的な探究の時間、に
鍵がある気がします。

真理の追求に、燃える想いを育てれば
勝手に生徒は自走する。

そんな自立型社会になっていくことを願って。

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