見出し画像

教科における探究〜英語編〜


前書き

教科における探究といえば、8月1日こちら現地で参加してますので、
Note友達な先生方、もしいらっしゃる時は声かけてくださいねー
(fbかTwitter(旧X)さがして貰えば自分いますので・・)
今回、LLM(生成AI)をバリバリ英語指導で使ってる安河内哲也先生と、東大松尾研で教育分野にコミットしてる吉田塁先生、とガジェット好きな自分としては「行かねば」と思ったので急遽参加します。

安コーチ先生のブログ

吉田先生の動画(そのほかはリコメンドに従って見ていけばOKかと)

こんな最新の情報を今回提供されてる東進の母体・株式会社ナガセも「予備校!」として生き残りをかけて、AIや探究と言った内容に挑んでいる雰囲気を感じます。おそらくベネッセも無視はしてないでしょう。(ベネッセが広域通信のサポート校を始めた報道も僕としてはこの流れで見てます。いずれ、大学入学試験はトップ層を除いては機能しなくなる予測、以前ブログでも書いてますのでスタンスとしてはそちらを確認して頂ければ。)

本題

現在2年生で扱っている題材が、
「オンラインでのやり取りで使用されているemoji・emoticon(テキストアート的な顔文字)による弊害について」なのですが、結構深掘りすると思い白いです。やはり、教科書の内容を絶対的なものとして捉えるというよりは「これってどうなん?」とちょっとした疑問を持つ「余白」をどう活かすか?ではないかと思う今日この頃です。いくつか自分で調べたことを備忘として残したいと思います。

1)要旨
絵文字や顔文字、確かに日本人同士のデジタルコミュニケーションには欠かせないものになってきているが、「デジタルで」「外国人と」「微妙なニュアンスを伝える」際に、絵文字・顔文字を使えばそのニーズは満たせる、と考えるのは考えた方がいいよ、という話。いわゆるcross-cultureと言われる文化を跨いだ、異文化コミュニケーション論、オンライン文化について。

2)理由1
「そもそも使ってる顔文字違う」
横書き文化(英語)→ :-) 
縦書き文化(日本)→(^^)
なるほど、言われてみればという生徒もいれば、「横書きがあったって知りませんでした」という生徒もいるようです。そりゃそうだ。ここで思い浮かぶのは

問い立ての重要性

「なんでこんな違いが生まれるんだろう?」
ってことです。ここについては事実やデータだけで「こういう事象がある」という以上の説明は教科書にはないので、発問すると面白いだろう、と思い、実際発問してみたところ、多視点からの、的を得た推論が出てきて面白かったですよ。自分が思ってもみなかった視点を得ることができるのはもしかすると英語科がラストチャンスかも、と思ってこういう発問をするようにしてます。

理由2)感情の表限方法が文化によって違う
(^^; これ、何を表現してますか?と聞けば、
日本人なら、「冷や汗、苦笑い」それに紐づくさまざまな感情を文脈から類推することができると思うんですが、これが海外の人たちに「伝わらない可能性がある」という驚愕の事実。「通じてるはず」と思うのは我々教員も同じですが・・・(^^;

そういえば今朝、こんな記事も

そもそも感情の表現方法が違う文化の人に「自分たちが何を伝えたいと思っているのか?(コンテンツ・イメージ)」と「どうそれを伝えるべきか(表現形式・方法)」を工夫するにはどうすべきか、考えるいいきっかけですし、「そもそも日本人同士でも本当に通じてるのか?」というところまで思考が至ってくれるともっと「これってどうなんだろう?」と類推が働くといいなと思います。(それが、界隈で言われている「問う力」なのかなと思っています。

理由3)コミュニケーションの相手の、感情を理解するために、顔のどこをみるのか?が違う。
これは意識したことがないなぁ、と思ってたんですが、英語教育でも圧倒的に欠けてる視点で「英語という言語を聞くときに、リップリーディングする」英語圏の人たちの習慣をなぜ第二言語話者の我々は教わらないんだろう?(そして耳だけで聞き取れ!というリスニング問題も存在する・・・)という教員である自分自身への問いかけも生まれてきます。実際ネイティブは「口元を見る(視覚情報)」も入れてるわけですよね。日本人だって本来はそうすべきだったはずですが昔はネイティブいませんでしたからね。テープレコーダーが入ってきてようやく音声が聞けて、インターネットで爆発的に情報量は増えたんですが「学習方法はそのまま」いや、本当にネイティブとオンライン英会話でもなんでもするって大事かもしれないな、と思うきっかけになりました。

理由4)そもそもみたことがないものは理解できない
当たり前なんですけど、僕らが日常的に使っているものを相手も使っているはずだと心理的に決めつけてしまってますが「そうじゃなかった」ということを体験的に出会うことが本来は重要なんですが、こうして教科書で伝えられる、というのも悪くはないです。ただこの「当たり前の前提」をどう共有するか文化的な同一性や機会・結果の平等を重んじてきた日本社会に突きつけられてる気がします。

アフタートーク

ここのところの円安を見てると日本の国力が日に日に衰退してるんじゃないか、という気にさえなります。(平成中期から始まってたわけですがようやっと茹でガエルの鍋が沸騰し始めたのかもしれません)日本国というグレートウォールが崩壊して巨人に襲われる日々に怯える生活にこれからなっていくのか?と思うと進撃の巨人も未来予測としてみると面白いだろうな、と思いつつも「じゃ、これから生きていく目の前の生徒や自分の子どもに、どんな力が必要なのか?」を考えつつ、試行錯誤しながら進んでいくのも現代教育の役目かな、と思います。(そのための権限移譲、と「教科のおける探究」を捉えるのも面白いかもなと思ってます。)


この記事が参加している募集