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教科における探究(英語編Part2)

本日の投稿、その追記:

探究って、思うんですけど、

教員の役割って大きい

と思うんです。

「これ、面白くない?」

て思えるかどうか。
イメージするのは
「岡田斗司夫」さん、
「大関真之」先生、
「安河内哲也」先生とか・・・
嬉々として自分の専門(好きなこと)を
語ってて思わず引き込まれてしまう。

その情熱や面白さを伝えられるのも、
教員を代表とするオトナ達だと思います。

もっとそういう社会に
なっていけばいいんですけど・・・

ただ、
大学入試で出るから覚えなきゃ、、
追われてたらあんまり面白くもない。

実は教える方として、受験指導は、
自分は面白くないなぁ、と
感じています。
(言っていいのか?)

教員としての充実感を、
受験校なりの自己実現とか自己有用感
として感じる方向もあると思います。

「自分の指導でー大学にー人入った」とか。
でも、自分はそこにドーパミン、あんまり
出ない気がしてます。そもそも、そう言う
指導が苦手なので。
(「こう考えたらいいんじゃない?」と
 提案することはあっても、結局やるやらんは
 生徒次第で(そもそも大学進学は自己都合)
 やらない結果責任は基本的に本人だと思うので。)

大学入試問題とか、模擬試験とか、
難しい問題解けたからドーパミン出るって
大事なこと、なのですが。
今日・唯一の論理表現の授業中にこんな動画を流しました。

苦痛にを感じることとか不快に感じることって
脳の可塑性に意味があるとのハーバード大学
医学部教授のポッドキャストの解説動画です。
非常に示唆深い気がしました。
(英語が素敵すぎるので是非聞いてみてください。)

間違えて、赤で答えを書きながら
「なんでやろう?」と考えることは
結構脳に負荷を与えます。

高校生・受験生の時、
ああでもない、こうでもないと考える
ことは好きでしたが、自分は本当に、
覚えることが苦手でした・・・。

A no more B than C is not B (だっけ)
とか、なんでこんな意味になるん?って
思ってたんですが。

当時高校生でたしか受験期だったこともあり、
覚えるしかなく、教員に尋ねた記憶もなく・・・
(ちなみに、マイナス記号持ちいないで
 クジラ構文、説明できますか?先生がた・・)

結局わからずじまいで、
ずっと「なんでやろ」と疑問に思ってました。
でもなぜか大学ではその疑問を解消してなかったですね。
大学に入るために必要であって、大学でそれを知りたいと
思うほどの動機にはならなかった、と言うことでしょう。 

しかし、教員になってから、そんな疑問の大半は
この本で解決された気がします。

そういうカタルシスもある意味、学習動機や記憶の定着に
寄与してると思います。しかし、自分の場合、
そんな「わかりたい」という前向きな気持ちよりも、
自分は「んなわけの分からんものいつまで出すねん」
って言う怒りとか、
生徒の「なんでこう言う意味になるのか分からん」
に対して答えられなかった悔しさのような気がします。

なんとなくやり過ごす方法を考案するのも
教師の仕事って言われる時もあるけど、
僕はそちらには与したくない。

特にクジラとか意味がわかれば十分じゃないですか?
演説とかで使われた時に。と思いますけどね・・
そもそも、この構文を使う時に
than以降「誰でもわかる例を入れる」
って大人になって随分経ってから知らされたものです。

そう、使い方さえ教わらずに
「(  )に単語を埋めなさい」
って、自分は「なんか嫌」なんですよね。

そう言う意味で、英語教員として、この20年ずっと
答えなり「腑に落ちる理由」を探し彷徨ってきた気がします。

そう言うゆとりさえ、大学受験校はあまり許されない空気があり、
ある意味、進学校じゃない学校にずっといて調べる時間があった、
英語教育達人セミナーやTmrowingさんの記述で学ぶ機会に
恵まれたのは幸せだったんだな、と思います。

ちょっと英語教員としての探究として追記させていただきました。

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